茨城県労災保険指定医協会とは
設立からの軌跡
昭和22年9月1日労働基準法が制定されると同時に「労災保険法」が誕生した。翌23年9月より都道府県単位の労働基準局ごとに「労災保険指定医療機関」が指定された。
労働者が業務中に傷病をこうむった場合、一日も早く職場復帰を果たせるように社会保険とは異なる充分に手厚い治療を受けられる制度である。また、休業中は傷病手当も支給されるなど労働者にとって大きな恩恵となった。
指定医療機関に対しては、非制限の自由診療の優遇策を与えて発足した。労災保険診療報酬は各基準局と当該地区労災保険診療担当者の交渉で決定し、診療費は所轄監督署に請求することになった。当然のことながら、医療機関によって請求内容が異なり、保険請求額は膨大なものとなった。各監督署は支払い請求書の処理に困り、支払い遅延がひどくなった。
指定医療機関から監督署を批判する声が高まり、指定医療機関の組織化が求められた。
昭和24年10月全国のトップを切って兵庫県労災指定医協会が設立された。本県でも多くのトラブルが目立ってきたが特に指定医療機関がまとまった対策はとられなかった。
本県を尻目に、静岡、東京、大阪、福岡など関西、中部などで組織化が進んでいった。
昭和31年に日本臨床外科医会が全国調査を行ったが、1点単価は10円から18円まで全国でばらばらであった。
茨城県では昭和33年に懸案であった労災保険指定病院協会が設立された。
各都道府県別個での基準局との交渉には限界があり、全国組織の対応が必要とされ、昭和35年名古屋において「全国労災指定病医院連絡協議会」が開催された。
昭和36年11月11日武見太郎日本医師会長と大野雄二郎労災補償部長の間で「申し合わせ」事項が結ばれ、1点単価は11円50銭になった。ただし、東京、大阪などは慣行料金制をとっており、11円50銭を上回って請求していたところはそのままということになった。
茨城県においては当時「労災診療費算定基準」いわゆる「茨城方式」と茨城県内のみ適用される特別加算を請求する方式を取り入れていた(いわゆる地域特掲)。しかし、武見・大野会談の申し合わせを受けて、昭和37年6月1日から民間医療機関は1点単価12円、公的医療機関(非課税医療機関)は11円50銭となった。
昭和37年5月、茨城労働基準局長の諮問に応じ、労災保険法の療養の給付または療養に要する費用に係る請求書等の審査を行い、労災保険診療の適正かつ公平化を図ることを目的とする「茨城労働局労災保険診療費指導委員会」が設置され、15名の委員で構成された。その内10名は茨城県医師会長の推薦により、当協会の役員を中心に労災保険指定医療機関の医師が委嘱された。
昭和42年、茨城労災指定病院協会は、武見・大野会談による「申し合わせ」が労災診療費改善の障碍になっているとして、破棄するよう武見日本医師会長に要望書を提出した。
昭和45年青森県で全国労災部会長・団体長会議が開催された。茨城労災保険指定病院協会は、労災診療の是正のための全国組織の設立を提唱し、全国組織化へ先陣を切った。
昭和46年には労災保険指定医協会と名前を変え、労災保険指定医療機関の権益を守るために闘う組織として活動してきた。
同年10月、兵庫県の呼びかけで「全国労災保険指定医団体長協議会」が開催され、24府県から41人の関係代表者が集まった。4名の委員を選出し、様々な意見から提案事項の詳細なまとめを一任した。
昭和50年4月、定期総会において「志村巌会長」が選出され、新任の挨拶で「当県労働者の保険料はざっと45億円といわれ、残りは労働省が吸い上げる。診療費が法外に低いのに不合理な話である。何としても東京並みの是正を行い、業権の拡大を図っていきたい」と述べた。志村会長は全国組織の設立運動や県選出国会議員へのロビー活動など診療報酬の是正のために積極的な活動を展開していった。
昭和54年の定期総会では、全国労災関係団体長、部会長会議を主催し、全国組織づくりを推進していくための予算を計上した。鹿島労災病院建設問題については県医師会に一任とした。5月には、茨城県独自の診療報酬改定の要望書、陳情書を茨城労働基準局と労働省に提出した。
さらに同年9月に「全国労災保険指定医協会長・部会長会議」を開催し、「全国労災保険指定医連絡協議会(仮称)の組織化の早期実現」について協議すべく志村会長名で全国都道府県医師会長と労災保険指定医協会長に呼びかけた。
9月29日、19府県が参加し、世話人代表の当県志村会長が「協会・部会では日医・労働省と交渉しても取り上げてくれない。全国統一を計り、労災問題について日医を窓口にし、労働省・政府と折衝する」と呼びかけ趣旨を説明した。そして、名称は「全国労災保険指定医連合会」とし、年2回開催、世話人は茨城県と決まった。昭和35年に全国組織設立の必要性が持ち上がってから実に20年にしてようやく設立されたのである。しかし、残念ながらその後連合会総会への参加県数は設立時を超えることはなく、平成3年4県による幹事県会議をもって自然消滅したようである。
年2回の会合を重ねる中、昭和57年4月1日には、日医の役員選挙が行われ、労災保険診療報酬に関心を寄せ、是正の要望書を関係当局に提出する一方、「開かれた医師会」を高く掲げた長野県医師会長花岡堅而氏が当選した。4月8日には就任早々の花岡会長と志村代表幹事の会談が実現した。志村会長からは自由診療である労災保険診療報酬の是正運動のこれまでの経過を説明し、日医を窓口に運動を実らせたい旨を話した。
6月には国会から中山利生代議士、日医から担当理事が出席し、第6回全国労災保険指定医連合会総会が開催され、連合会として日医の中に専門委員会を設置し、連合会からも委員を送り込むことを要望することとなった。
8月、日医主催で初めての「全国都道府県医師会労災担当理事連絡協議会」が開催され、、全国都道府県医師会に対するアンケート調査が実施された。
昭和59年4月1日、日医の役員選挙が行われ、東京都の羽田春兎会長が選ばれた。新会長はあいさつの中で、「健保法案も国会審議に入った段階、もっと以前の段階なら反対運動に効き目もあろう、慎重に考えたい。対話と強調は内部にとどめ、官僚統制には抵抗していく。」と述べた。
早速代表幹事である志村巌会長は新会長との会談を申し入れ、瀬尾担当常任理事も同席して開催された。志村会長からはこれまでの経過を説明し、「日医との連携のもとに今後の活動を進めたい、日医の労災自賠責委員会の構成に対する要望」等を話し、羽田会長は「健保改正案は凍結すべきだ」と述べた。
7月には、連合会春季総会を前に日医の瀬尾常任理事と会談し、瀬尾常任理事は尼ケ崎医師会長時代から労災問題に関心があり、「連合会と医師会との連携の方向付けはしっかりやりたい。連合会のために役に立ちたい。」と話した。
同じ月、県医師会労災自賠責委員会(委員長は当協会理事でもある浦川理事)、幹事損保会社、調査事務所との懇談会が初めて開催され、その後昭和60年12月には自動車保険(自賠責保険を含む)に関する件については「茨城県自動車保険医療連絡協議会」を設置することになった。
また理事会では、手術料、緊急手術及び処置料、処置回数等について、茨城労働基準局に要望書を提出することを決めた。
昭和61年、「労災保険による療養補償給付に係わる診療報酬」について県医師会と当協会が協議をした結果、理学療法料、入院料について覚書をかわし、翌年1月1日からの実施が決まった。
茨城労働基準局から出された「健康保険における診療報酬点数等の改訂に伴う労災診療費等の取扱いについて」とした内容について、会員がより分かり易い手段として「労災保険による療養補償給付に係わる診療報酬について」との見出しで詳細に記載したものと、茨城方式(茨城県内のみで適用される)を加えた算定基準を作成し会員に配布した。
昭和62年からは志村会長の辞任に伴い後藤新会長が引き継ぎ、これまでの活動を積極的に継続した。平成元年12月には後藤会長に代わり志村巌会長が再就任した。
平成2年、労働省は、労災診療費の早期支払いのため「労災保険情報センター(RIC)茨城事務所」の設置について、茨城労働基準局の担当者と共に志村会長宅を訪れて要望した。しかし、RIC設置には、地域特掲をなくし、全国統一とすることが目的ではないかとの懸念は拭えなかった。
協会内で「RIC問題検討委員会」を設置し、また全国労災保険指定医連合会でも検討を重ねた。平成4年3月の定期総会では茨城事務所の設置は承認しない旨を打ち出したが、7月に臨時総会を開催し設置と加入契約について協議し、設置に合意することとなった。
労災保険情報センター設置に伴う労災診療費請求事務について、県内5か所で説明会を開催し、①協会の団体として契約を行う ②地域特掲(茨城方式)を守る ③協会とRICが共存する とした趣旨徹底を会員に呼び掛けた。
平成5年2月に労災保険情報センター(RIC)茨城事務所が開設された。
10月には、茨城労働基準局、茨城県医師会、茨城県労災保険指定医協会の3者で、「労災診療費問題協議会」が設置された。
平成6年になると、地域特掲が認められているのは全国で4~5県、労災保険の特質を活かした地域特掲をきちんと守っているのは茨城のみとなり地域特掲を守ることは極めて困難になっていった。
支払いに係る問題は、三者協議会に協会からも委員を選出することで、支払う側と診療側と県医師会を含めて協議することで非常にスムーズになった。
平成8年3月の茨城県労災保険指定医協会臨時総会では、労災診療費の1000分の7であった会費を1000分の5に引き下げ、6月の定期総会では、東京、福岡、茨城の3都県となってしまった地域特掲を本格的に検討する委員会が設置された。3回の委員会を開き全国の状況を踏まえて検討し、理事会を開いて慎重審議の上茨城県における地域特掲は平成10年3月末日を以て解消することで茨城労働基準局長と合意書を交わした。
ここに設立以来40年にわたる茨城県労災保険指定医協会の闘いの歴史は終止符を打った。
現在も毎月1回労災保険診療費指導委員会が開催され、当協会の会長が委員長を務め、役員を中心に労災保険指定医療機関に所属する医師が、県内の労災保険診療費の請求が適正になされるように指導を行っている。
また、15名の委員の審査基準の統一を計るために、年に1度は疑義事案意見交換会を開催し、不公平のないよう務めている。